蚕種業の歴史HISTORY
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信州うえだの蚕種業の歴史
江戸時代の末期から昭和にかけて、長野県経済を支えてきたのが蚕糸業である。全県にわたって発展したのが養蚕業であり、全国一の製造を誇ったのが蚕種と製糸である。
養蚕が盛んだった上田盆地は、千曲川とその支流が作る扇状地や河岸段丘が発達し、桑の栽培適地であった。また、年間降水量が1000㎜未満という気候は蚕の飼育に適しており長野県内でもとりわけ上田盆地は春蚕の産地であった。これに対して、松本盆地では夏秋蚕を中心として発展してきた地域であり、いつも対比されていた。こうした傾向は養蚕飼育技術が改良される明治末期まで続いた。 -
蚕種製造の始まり
蚕種生産は下総の結城地方 (茨城県) で元禄の時代から (1688~1704) 、次いで奥州の伊達・信夫両郡 (福島県) で幕府の許可を得て蚕種の「本場」の称号を与えられ (安永の時代:1772~1780) 行われていた。長野県での蚕種製造の歴史は上田地方が早く、藤本善右衛門家によって寛文の時代 (1661~1673) で蚕種製造がはじめらたといわれている。上田地方の蚕種製造は、はじめ奥州産蚕種を仕入れ (仕入種) 販売していたものが、次第に奥州へ出向き蚕種製造をするようになり (手作種) さらには自家製造 (地種) へと発展し、そこから全国へと販路を広げていったといわれている。
蚕種製造が盛んになった背景としては、① 江戸時代になり貨幣・商品経済が発達による幕府や各藩による養蚕業や織物業が奨励、② 蚕種・養蚕・製糸の分業化が進んだ、ということがあったため蚕種の品種改良や飼育方法などが研究され始めたことにもよると考えられる。 -
上田地方の蚕種の発展
上田地方が日本一の蚕種製造地帯となった背景としては、蚕種の改良と歩桑 (ぶぐわ)※1 による種繭の生産による。また、雨が少なく乾燥した寡雨気候であるため蚕種業発展の大きな要因となった。
※1:歩桑とは蚕種製造の大敵であるかいこノウジバエ※2の産卵のない桑のことで千曲川原の桑園で蚕種用として作られ、品種は鼠返しが多かった。蚕種製造の種繭生産には最適の桑で出蛾率 (蛾歩) が良いということからこの名がつけられた。
※2:かいこノウジバエ (Crossocosmia zebina)
別名蠁蛆。双翅目ヤドリバエ科に属し蚕の体内に寄生する。年一回の発生で、春蚕期に被害を生ずる。被害蚕は蛹期までに死亡するため蚕種製造ができず、また蛆の脱出した被害繭は製糸原料にはならない。蚕のほかに20種類以上の鱗翅目幼虫に寄生する。